言うとおりにしてくれないと、このまま離さない


 5月23日は特別な日などでは無かった。
 響也にとっては、ごく普通に流れていく日々のひとつで、だからこそ油断していたとも言えた。
 仕事中、恋人と呼んでも差し支えのない男からの来たメールを何気なく開き、響也は飲みかけの珈琲を気管に入れ、盛大に噎せ込む羽目になった。
「…何、考えてるの…あの人?」
 そうして、ゲホゲホと咳をしながら口を突いて出た言葉はそんなものだった。

 
Hast thou beheld a fresher gentleman?
Such war of Brown and red within her cheeks!
What stars do spangle heaven with such beauty
As those two eyes become that heavenly face?

(こんなぴちぴちした彼を見たことがあるかい? あの頬の色、肌の下で褐色と赤とが競いあっているようだ! あの二つの目、どんな星だって、あれほどの美しさをもって、夜空を輝かしはしまい?)


「心外だなぁ、ラブレターだよ、これ。」
 いつのも通り、事務所のソファーに寝転びながら成歩堂はそう告げた。にっこりと笑う事も忘れない。携帯のディスプレイを相手に突き出したままで固まった響也は、成歩堂の言葉を反覆した。
「…ラ、ブレター…?」
「そうだよ。5月23日はキスの日であり、恋文の日だってみぬきが騒いでたから、君に送ってみたんじゃないか。」
 頑張って送ったのにショックだよ〜などと思わせぶりに眉を潜めた成歩堂を、響也は胡散臭い表情で眺めた。そんな単純な理由だけで、目の前の飄々とした男が行動を起こすはずがない。
 一体何を企んでいるのか…。

「ラブレターって、これ、シェークスピア戯曲の…。」
「流石、天才検事。よく解ったね。」
「それくらい知って…ていうか、何でアンタがこんな事知ってるんだよ。捩ってはあるけど、これ原文じゃないか。」
「シェークスピアを演じるのが夢で、僕は大学で演劇を専攻してたんだよ。天才検事もご存知ないの?」
 職を弁護士に求めた男が何を言うのかと、響也は憤慨し声を張った。
「だいたい、天才検事とは全く関係ないだろ!」
「響也くんは、僕に興味がないんだね。」
 拗ねた声に、はぁと大きな溜息。うっと詰めた響也の息は、成歩堂のペースにのせられつつある事を感じたせいだ。
「…そうだよね。僕はしがないピアノ弾きのおっさんだし、響也くんはスター検事だ。僕につき合ってくれているのは、同情心なんだよね。」
「べ…別にそんな事思ってないよ。僕は…。」
「嘘。だって一生懸命不慣れな英語まで打ったのに、冷たいじゃないか。」
 気怠い動作で響也に背を向ける。拗ねた中年親父、図にしてみれば最悪だろう。
しかし、丸めた背中に向けられた視線が、困惑したものに変わるのを感じて成歩堂は秘やかにほくそ笑んだ。
「…悪かったよ。」
 なんで僕が、と憤る声色のままそれでも謝罪の言葉を口にする。自尊心の高い響也が自分の為に屈するという状態が、どれほどに成歩堂の所有欲を擽る。
 高揚する気分を押し留め、成歩堂は伺うように背中越しに、響也を見上げた。
「ホント?」
 渋々という風ではあるが、頷く。軽く唇を噛む表情が堪らない。
 
「じゃあ、龍一さん愛してるって言いながら、接吻して欲しいな。」

 くるりと全身で響也へと向き直ると、手と腰を掴んで引き寄せる。膝の上に腰を降ろしたのと同時に抱き締めた。
「…!!!ちょ…、いつおデコくんやお嬢さんが帰ってくるかわからな…「だったら、早くしないとね。」」
 耳まで真っ赤になり羞恥に目を潤ませた響也に、にっこりと笑って宣言する。
 
「言うとおりにしてくれないと、このまま離さない。」

 歌詞にすれば、平気でそんな言葉(いや、それ以上過激な言葉を、だ)を全国民に向かって発するくせに、自分を前にすると悪態の方が先に立つ青年の腰と背中に回した腕に力を込めた。嵌められた悔しさを滲ませ、睨んでいた響也の瞳が戸惑いと躊躇いを含んで揺れる。
 アイスブルーの瞳は細波に似ていた。
 それはたまらなく蠱惑的で、仕掛けるのを我慢するのに相当の忍耐力を必要とした。それでも、成歩堂は飄々とした態度を崩す事なく、響也が動くの待つ。

 なんと言っても、彼に送った一文の題名は『じゃじゃ馬ならし』なのだから。

 ギュッとパーカーの袖を握り締め、響也が距離を詰める。小さな小さな声で告げてくるだろう言葉を聞き逃さないように、成歩堂は頬を緩ませて聞き耳を立てる。

「…龍、…ゅう、さ…愛してる…。」

 それは至福の時間。<


〜Fin



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